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2方向に分かれ進軍したギリシャ軍はアンカラ西方300kmのイノニュにおいて、同10月、翌年3月の二度に渡ってトルコ軍と交戦し敗北し、一時後退した。このときトルコ軍を率いていたのはケマルの片腕で後にトルコ共和国首相、大統領を務めることになるイスメト・イノニュであった(イノニュの姓はこの戦いを記念して贈られた)。エーゲ海沿岸部に比べ、アナトリア内陸部にはギリシャ正教徒はほとんど住んでおらず、ギリシャの侵略に対してゲリラによる反撃が多発していた。1921年7月、ギリシャ軍はイギリスなどから物資の援助を受けて3たび進軍し、今回はアンカラ西方50kmの地点まで進撃することに成功した。
トルコ国民議会はケマルを総司令官に任命し、直接指揮にあたらせることになった。ケマルはアンカラ西方サカリヤ川沿いに100kmに及ぶ塹壕線を築き、数に勝るギリシャ軍に対峙し、事態は消耗戦の様相を呈してきた。ゲリラにより補給を寸断されていたギリシャ軍は次第に押され気味になり、9月12日トルコ軍が攻勢に出ると、これを支えきれず全面撤退に入った。トルコ軍には追撃をおこなう余力はなく、ギリシャ軍は200km後方のイズミルまで撤退した。
ギリシャ軍はイズミル周囲に防御線を築き、外交での解決も模索する構えを見せていたが、既にトルコ側は実力でイズミルを回復する決意を固めていた。1922年8月26日、トルコ軍はイズミル周囲100kmにわたって全面攻勢に出て、数日のうちにギリシャ軍は総崩れとなった。イズミルから軍民が艦船でギリシャ本土に脱出する中、9月8日にはイズミルがトルコ軍に占領され、逃げ遅れたギリシャ軍兵士の多くは射殺された。数日後には市街地で火災が発生し、トルコ軍の略奪もあって貿易港として栄えた町は灰燼に帰した。
イズミルを占領したトルコ軍は北へ向かい、海峡管理区域のイギリスくりっく365
と対峙した(チャナック危機)。トルコ軍は管理区域から撤退し、実際の戦闘は避けられたが、ケマルの率いるトルコ国民軍と争う余裕のない英仏両国は、セーヴル条約に代わる講和条約をアンカラ政府と結ぶ必要に迫られた。
トルコは東トルキアに軍を進駐させることを条件にギリシャと休戦した。敗北したギリシャでは、戦争前に亡命していたヴェニゼロス支持派の軍人によりクーデターが発生した。戦争を押し進めた国王コンスタンティノス1世は再び退位させられ、ゲオルギオス2世が即位することになった。1923年7月にスイスのローザンヌで旧連合国とトルコ政府、周辺諸国を交えローザンヌ条約が調印された。この中で東トルキアおよびイズミルはトルコ領となり、ギリシャ、トルコ間の現国境が確定した。
さらにこの条約では、ギリシャとトルコ間での住民交換が決定した。約100万人のギリシャ正教徒がトルコからギリシャへ、50万のイスラム教徒がギリシャからトルコへと移住した。例外として、イスタンブールにおける正教徒コミュニティーとギリシャ領トラキアにおけるイスラム教徒は居住を許された。
ポーランド・ソビエト戦争(ポーランド・ソビエトせんそう;ポーランド語:Wojna polsko-bolszewickaヴォーイナ・ポールスコ・ボルシェヴィーツカ;ロシア語:Советско-польская войнаサヴィェーツカ・ポーリスカヤ・ヴァイナー;ウクライナ語:Польсько-радянська в?йнаポーリスィコ・ラヂャーンシカ・ヴィイナー)とは、第一次世界大戦後の1919年2月から1921年3月にかけてウクライナ、ベラルーシ西部、ポーランド東部を中心に行われたポーランドとソビエト政府のあいだの戦争。ロシア革命に対する干渉戦争の一環ともとらえられる。また、日本語では「ソヴィエト・ポーランド戦争」、「ポーランド・ソ連戦争」、「ソ連・ポーランド戦争」などとも書かれる。但し、戦争が行われたのはソビエト社会主義共和国連邦成立前。
第一次世界大戦直後の外為
は、ロシア革命に対する干渉戦争と内戦の影響により、混沌とした情勢にあった。パリ講和会議の結果により、ポーランド分割以来のロシア国家による支配から独立を果たしたポーランドは、人種的・宗教的影響やかつてのポーランド王国の領域などからベラルーシ西部やウクライナ西部の土地に関心を持っていた。このため、講和会議で得られた領域をさらに東方に拡大し、分割前(1772年8月5日以前)の領土を回復するために、干渉戦争の混乱に乗じ、ソビエト政府との戦争を開始した。1920年当初は、ポーランド軍は、キエフを占領するなど大きく進撃した。しかし、1920年4月以降、赤軍が反撃を開始し、6月にはワルシャワを包囲した。ポーランドはフランスなどから援軍をもらい、そのため、8月末から赤軍は撤退し、10月に停戦することとなった。1921年3月に講和条約が結ばれ、これによりポーランドはリヴィウを中心としたハリチナー地方などウクライナ西部を併合し、東方に大きく領土を広げることとなった。
1919年3月の勢力範囲1918年に第一次世界大戦が終了すると、東欧は大きな変革を迎えることとなった。ドイツの敗北により、ドイツによる東欧の緩衝国家建設計画は不可能となり、またロシアも革命の影響により、他国への干渉能力を失っていた。このため、ベルサイユ講和条約により誕生した東欧の新国家は、弱体な小国家が多かった。その中で、ポーランドは例外的・相対的に大国となりえた。また、かつてポーランド王国として、東欧に広大な領域を保有していたが、ポーランド分割により、その領土は失われたため、領域復活にかける願望を持っていた。ポーランドは、1918年に再独立を果たす際に、ドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国、ロシアなどから領土を獲得していた。ただし、東部国境は交渉すべきロシア政府が不在ということもあり、この時点で未確定であった。(ただし、1919年12月には境界としてカーゾン線の提案がなされている。)
ポーランドはユゼフ・ピウスツキを中心に、かつてのポーランド王国領域の復活と、ポーランドを中心とした国家連合によってドイツやロシアと対抗する方針を持っていた。ただし、ポーランドはロシアの政体への干渉やロシアの征服などの意図は持っていなかった。しかしながら、ロシアは歴史上幾度となく直にポーランドの脅威に晒されてきたため同国に対する警戒感情は高く、また革命を機に分離独立を目論む強力な勢力がいくつも「国家」を打ち立てていた旧ロシア帝国領小ロシア(ウクライナ)への干渉の可能性が極めて大きいこともあり、成立間もなく未だ戦時下にあったソ連政権のポーランドとそれに組する反革命勢力に対する警戒は弥増しに増していた。
1919年前半頃は、ロシアで干渉戦争が行われていた。また、外為
の支援を受けて、ポーランド軍の創設が行われている。1919年後半になると、ロシアの革命政府は徐々に白軍に対し有利になり始めた。ロシアは、革命の機運が高まっているドイツと結ぶことも考慮し始め、レーニンやトゥハチェフスキーは、ポーランド攻撃を示唆した事もあった。このことも腹背に非友好国を持つことになるポーランドを刺激していた。
一方、ロシアの政府からの実質的独立を果たしたウクライナでは、ウクライナ民族主義者シモン・ペトリューラの再建したウクライナ国民共和国が、ポーランドに亡ぼされた西ウクライナ国民共和国の残存勢力と共同し、赤軍との間で一進一退の戦闘を継続していた。しかしながら、ウクライナ勢力にとっては不運なことに、1919年10月ウクライナ軍の間でチフスが大流行し、兵力の70%が失われてしまった。これはもはや軍隊ではなく棺桶である、といわれたとされる。ボリシェヴィキーを憎悪し、キエフ・ルーシ以来のウクライナの独立を夢見るペトリューラは、無念の内にウクライナ民族の宿敵ポーランドへの亡命を余儀なくされた。
1919年2月に、ビリニュスにおいて、赤軍はポーランド民兵部隊を撃破し、当地を占領した。2月半ばにはコブリンからネマン川(ロシア語:ニェーマン川;ポーランド語:ニェメン川)にかけて戦線が構築され始め、また、他の白軍部隊の交戦が激化したため、赤軍はそれ以上の西への進撃は行わなかった。3月にはポーランドも反撃を行い、ネマン川を越えて、リダやスロニムの町に進撃している。また、グロドノやビリニュスでも戦闘が行われ、ポーランド軍が勝利している。10月までにポーランド軍はドヴィナー川まで進撃した。
1919年12月の勢力範囲1919年のポーランド軍の攻撃は概ね順調に推移した、なお、1919年夏頃は、ロシア方面では、ドン地方で強大な勢力を築いた反革命のデニーキン軍がモスクワへの進撃を行っているなど、旧ロシア帝国領域における干渉戦争の影響も大きかった。なお、デニーキンはポーランドの独立に理解を示さなかったために、ポーランド政府や軍との連携は良いものではなかった。これは、デニーキン軍とウクライナ勢力との間でも同様のことであった。
和平交渉は1919年中に行われてはいたものの、ポーランドの政治家が強硬であったために、成立しなかった。また、リトアニアが独立の際、ビリニュスを首都予定地とし、ポーランドと交渉を行ったものの、ポーランドはリトアニアに譲歩せず自国領ととしたために、リトアニアとの関係は悪化している。一方、ラトビアとの交渉においてはポーランド軍への協力を得ることに成功しており、さらに翌年にはウクライナ民族共和国との連合にも成功する。
1920年に入ると、赤軍はデニーキン軍を撃破し、またラトビアやエストニアと平和条約を結ぶことに成功したため、ポーランド方面に赤軍が集中し始めた。1920年1月には70万の赤軍がベレジナ川付近に集中していた。1920年半ばまでに、これは80万人に増強された。このころの赤軍は、ドイツ軍の遺棄兵器や干渉軍から奪取した最新兵器で装備されていた。ポーランド軍は、1920年夏には70万の兵員を有し、兵力は赤軍と同等であったものの、兵站状況が悪く、装備が統一されていないと言う欠点を持っていた。
4月には、ポーランドに亡命していたペトリューラはポーランドとの間にワルシャワ条約を結び、不動産投資
の再建したウクライナ国民共和国をウクライナを代表する唯一の政府として認め、互いに単独講和を結ばない、戦後は東ハリチナーをポーランドに割譲するなどを条件に彼の率いる執政内閣(ドィレクトーリヤ)軍がポーランドと共に戦うことになった。ペトリューラは、何よりもまずボリシェヴィキを憎んでおり、それを倒すためであれば、ウクライナの宿敵であるはずのポーランドとの連合も辞さなかった。
一方、ポーランド軍は赤軍の攻勢の前に、先制攻撃を行うことを計画し、4月から進撃を開始した。ポーランド第3軍はペトリューラ軍と共同し、5月7日(または5月6日)にキエフを占領した。しかしながら赤軍は直ちに反撃を行った。北部においては赤軍の反撃は成功し、ポーランド第1軍は大きく後退した。5月24日に、南部のポーランド軍もプジョーンヌイ率いる第1騎兵軍のコサックの攻撃を受けた。6月10日頃までにポーランド軍の敗退はワラント
になり、ペトリューラも6月13日(または6月12日)にキエフを放棄して撤退した。