株とFX 初心者「米国国債」
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第二次エチオピア戦争は、1935年から1936年にかけて起きたイタリア王国とエチオピア帝国の戦争。第一次エチオピア戦争で敗れたイタリアは、再度エチオピアの植民地化を意図した。また国際紛争の解決において大国の利害に左右された国際連盟の無力さが露呈した戦争でもある。
世界恐慌後のイタリアの状況、人口の増加に比して経済の著しい低迷、高い失業率を背景として、ベニート・ムッソリーニ政権は、「古代ローマ帝国の再興」、「地中海を再び我らが海に」という民族主義的なスローガンを掲げつつ、余剰人口や資源の為の植民地の獲得と国威発揚を目的とした膨張政策を進めた。
植民地として第一候補に挙げられたのがエチオピアである。アフリカ分割によりアフリカのほとんどはイギリスやフランスなどの植民地と化していたが、その中でエチオピアは独立を維持していた国の一つであった。また他の理由として、地理的にはエチオピアはイタリア領のエリトリアとソマリランドに隣接しており攻撃しやすかったこと、エチオピアが軍事的に弱体であったこと、天然資源が豊富であったこと、第一次エチオピア戦争という過去を口実にできたことがある。
イタリアはイギリスとフランスの干渉を排除するため、1935年1月7日フランスとの間に、アフリカ大陸におけるイタリアの自由行動を認める協定を結び、同年4月ドイツの拡張に対抗するためイギリス・フランスとともにストレーザ戦線を結成した。
6月に英独海軍協定が締結されると、エチオピア侵略のための外交面における障害はほぼ無くなった。
イタリア領ソマリランドとエチオピアの国境を策定した条約では、ベナディール海岸から21リーグ内陸を平行した線とされていた。イタリア側は、より大きくエチオピア領を侵食しようという意図から、標準的なリーグではなく、海事におけるリーグと解釈した。1930年にはエチオピアのオガデン地方のオアシスであったワルワルにイタリア軍が要塞を築き、1932年にかけてイタリア領ソマリランドからの進出はますます顕著になり、明らかにエチオピア領内である場所に道路までも建設され始めた。
1934年11月、エチオピアの地方守備隊を伴ったイギリス領ソマリランドとエチオピアの国境策定委員会は、このイタリアの侵略に抗議したが、委員会のイギリス代表は、国際紛争化を避けるためにすぐに現地を退去した。12月5日、ワルワルの地で両軍が衝突し、エチオピア軍に150人、イタリア人に50人の死者が出て、株
は最高度に達した。
1935年1月3日、エチオピアはイタリアの侵略を国際連盟に提訴した。この問題を巡って国際連盟は「アビシニア危機」と呼ばれる政治危機に揺れるが、国際連盟の中心的存在であった英仏の宥和政策に引きずられて、1935年9月、国際連盟の仲裁委員会は紛争当事者双方に責任なしという裁定を下し、事実上事態の推移を傍観するだけであった。
この間、イタリアはエリトリアとソマリランドの軍をエチオピア国境に集結させ始めた。攻撃がもはや避けられないものとなるや、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエは、国家総動員を命令し、50万人の新兵を集めたが、彼らの多くは、槍や弓矢といった原始的な武器しか持っていなかった。
開戦時エチオピア軍は35万人の兵力を集めたが、訓練を受けていたのはその4分の一で、装備していたライフルは18世紀のものだった。
エチオピア軍は旧式の火砲200門を保有し、馬車によって運搬された。また、エリコン20mm機関砲やヴィッカース重機関銃など対空砲50門、第一次世界大戦で使用されたルノー FT-17 軽戦車の改良型であるFIAT3000軽戦車をごく少数、保有していた。
空軍は貧弱で、資産運用
できる兵器は小型の複葉機3機であった。
1935年4月イタリアは東アフリカの植民地において兵力の強化を開始し、エリトリアに正規軍5個師団と黒シャツ隊5個師団が、イタリア領ソマリランドに正規軍1個師団と黒シャツ隊数個大隊がそれぞれ到着した。
元駐留軍や現地人兵士を除き、これらの部隊は士官7千人と兵士20万人[要出典]によって構成され、マシンガン6千丁、火砲700門、豆戦車150両、航空機150機を装備していた。また現地の傭兵や反乱部族(アスカリ)も多数戦列に並んだが、極めて後進的な装備で忠誠度も低かった現地兵は信頼に足る戦力にはならなかった。
1935年10月3日、エミリオ・デ・ボーノ将軍を総司令官とするイタリア軍部隊10万人とエトルリア軍部隊2万5千人が宣戦布告なしにエリトリアから侵攻を開始した。イタリア軍部隊の大半は、前述のアスカリと呼ばれる土着民の傭兵が占めていた。同時にソマリランドからロドルフォ・グラッツィアーニ将軍の支援軍が攻勢を開始、こちらはデ・ボーノ将軍の戦力より実数は少なかったが、本国兵で編成された機械化部隊が中核を占めていた。イタリア軍は各地で快進撃を続け、10月6日にアドワ、15日にアクスムを占領し、アクスムにおいて歴史的建造物であるオベリスクを略奪した。
10月7日、国際連盟はイタリアを侵略者とする採択を可決し、イタリアに対する経済制裁を開始したが、石油などの重要な戦略物資には適用されることはなかった。これは、たとえ禁止したとしても、イタリアは国際連盟に加盟していないアメリカから購入することが可能であるから意味がないとする英仏の宥和政策に基づく主張が背景にあった。また、国際連盟によって和平案(ホーア・ラヴァル案)が立案されたが、基本的にイタリアによるエチオピアの植民地化を容認する内容で、あまりにイタリア寄りの内容であったため、エチオピアはこの受諾を拒絶した。
12月中旬、用心深い性格で進軍が捗らないボーノ個人向け国債
は更迭され、新たにピエトロ・バドリオが総司令官に就任した。バドリオは早期占領を目指すべく積極的な進軍を続け、防御戦で一々立ち止まる手間を惜しんで毒ガスによる鎮圧すら用いた。国際社会からの更なる非難を呼び込む事にもなった毒ガス攻撃であったが、しかし『ムッソリーニの毒ガス』でその効果を検証したアンジェロ・デル・ボカは、同戦争における毒ガス使用にさしたる軍事的効果はなく、仮にこれを用いなくとも(通常兵器のみでも)代わらぬ勝利を得れたろうと述べている。むしろ効果を挙げたのはグラツィアーニが行った戦略爆撃の方で、翌1936年3月29日、グラツィアーニ麾下の空軍部隊がエチオピア東部の都市ハラールを焼夷弾による爆撃で殲滅している。
3月31日、最後の主要な戦闘であるメイチュウの戦いでイタリア陸軍はエチオピア帝国親衛隊と会敵、この戦いはイタリア軍の勝利に終わった。帝国親衛隊は壊滅し、近代的な精鋭部隊を喪失したハイレ・セラシエは5月2日に国外へ脱出して後にイギリスに亡命した。5月5日、イタリア軍が首都アディスアベバを占領して戦争は終結する。
5月7日、イタリアはエチオピアを併合し、5月9日、イタリア領のエリトリア、ソマリランドを合わせたイタリア領東アフリカの樹立と、その皇帝にイタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世の就任を宣言した。同植民地に対する当初の目的であった移住・植民活動は振るわず、内実から言えば芳しくなかった。その後、第二次世界大戦においてイギリス軍の侵攻により、1941年東アフリカ帝国は崩壊した。
なお、戦争中にアフリカ系アメリカ人がアメリカ共産党ハーレム支部などを中心に、エチオピアに対して医薬品を購入するための資金を集め、義勇兵を組織するなどして支援を行った。
スペイン内戦(スペインないせん、Guerra Civil Espanola、1936年7月 - 1939年3月)とは、第二共和政期のスペインで勃発した内戦。マヌエル・アサーニャ率いる左派の人民戦線政府と、フランシスコ・フランコ将軍を中心とした右派の反乱軍とが争った。反ファシズム陣営である人民戦線をソビエト連邦が支援し、フランコをファシズム陣営のナチス・ドイツ・イタリアが支持するなど、第二次世界大戦の前哨戦としての様相を呈した。
第一次世界大戦後のスペインでは、右派と左派の対立が尖鋭化していた上にカタルーニャやバスクなどの地方自立の動きも加わり、政治的混乱が続いていた。そのため、一時はプリモ・デ・リベラ将軍(ファランヘ党創設者の同名のホセ・アントニオ・プリモ・デ・リベーラ侯爵は彼の息子である)による軍事独裁政権も成立した。
1931年に左派が選挙で勝利し、王制からipo
へと移行(スペイン革命)しスペイン第二共和政が成立するが、1933年の総選挙では右派が勝利して政権を奪回するなど、左派と右派の対立は続いた。左右両勢力とも内部の統一が図れなかったため、政治的膠着状態が続いていたが、1935年にコミンテルン第7回大会で人民戦線戦術が採択されると左派勢力の結束が深まり、1936年の総選挙で再び左派が勝利し、マヌエル・アサーニャが率いる人民戦線政府が成立した。
人民戦線勢力はさらに進んで、警察を使ってスペイン保守派の中心人物の一人であったカルボ・ソテロを暗殺するなど、暴力による右派の物理的排除に乗り出す。これに対してスペイン本土と植民地モロッコで、フランコの指揮する軍隊が反乱を起こすと、赤色テロの脅威に直面したカトリック教会、地主、資本家、軍部などの右派勢力はこれを支持してスペイン全域を巻き込む内戦へと突入した。
1936年の8月から9月にかけての勢力圏反乱を起こしたフランコ将軍は、ファシズム政権を樹立していたドイツとイタリアから支援を受けた。モロッコのフランコ軍は、両国の輸送機協力によって本土各地へ空輸されて早期な軍事展開を果たした。株
に成立していたサラザール独裁政権もフランコを助け、アイルランドもエオイン・オ・デュフィ率いる義勇軍がフランコ側に参戦した。
当時、ファシズムに対して宥和政策をとっていたイギリスは、内戦が世界大戦を誘発することを恐れて中立を選んだ。隣国フランスでは、レオン・ブルムを首相として人民戦線内閣が成立し、当初は空軍を中心とした支援を行ったが、閣内不一致で政権は崩壊し、結局はイギリスと同様に中立政策に転換した。
そのため、人民戦線政府は国家レベルではソビエト連邦とメキシコからしか援助を受けられず、しかもメキシコからの軍事的な援助はごくわずかであった。しかし、国際旅団が各国から駆けつけたことは、反ファシズムの結束を象徴的に示すことにはなった。
また、フランコの反乱と時を同じくして、工場労働者や農民などによる革命が勃発し、地方の実権を握ったとバーネット・ボロテンは指摘している。この革命は主に無政府主義者や社労党左派の支持者によって起こったが、ボロテンによれば、人民戦線路線を取るソ連にとってこの革命は不都合なものだったので、実態を隠蔽して社会主義革命ではなく「ブルジョワ民主主義革命」の段階であると主張したという。